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大政翼賛的考えと差別と区別の違いから人の行動を室井佑月氏の発言にみる

抗議を受けた室井佑月 「あたしの意見は福島差別になるのだろうか」 : No Nukes 原発ゼロ

もっとも重要なことは「福島のことを扱うことがUntouchableになっている」こと。福島に修学旅行に行くか行かないかは実は余り重要な話ではない。
"絆、復興”など耳障りの良い言葉を目にするが本心からではなく無難なことしか言わない日本人特有の回避行動という印象が強い。取り敢えず「言っとけ」って感じで気持ち悪い。今の日本では「福島礼賛が美とされてる」のだ。これが世に言う大政翼賛的なのだと思う。扱うことがタブー視される点で戦時中と同じ。でもね、それは間違い。だから敢えて言おう。


昔10代の頃読んだ何かに「差別と区別は違う」ということが書いてあった。
今、考えるとその違いは裏付けがあるか or 無いかの違いだと思う。裏付けがあるのが区別で無いのが差別。ここで裏付けとは科学的根拠といってもよい。感情や気持ち、思いなど定性的なものは裏付けとは言わない(でも人間の行動を決定付ける重要な要素である。最後にもう一度出て来る)。注意しなければいけないのは"根拠"のこと。「この食品を食べて15kgも痩せた」というダイエット食品の"根拠"が科学的根拠か?というと違う。1000人も食べれば1人くらいは痩せる人も出るという事実に焦点を当てたマイクロ効果とも呼べるもの。ある特定の事象を取り上げることで全体が同じ事象になると勘違いさせる効果。但しこれも残りの999人の人の効果を併せて出せば科学的根拠となる。詐欺的商法はこの効果をよく使う。ブラックマーケティングとも言うべき手法。美味しんぼで取り上げられた「鼻血が出る」も一部に焦点を当てたマイクロ効果そのもの。科学的根拠ではない。

さて室井佑月の発言は差別なのかと言えば僕は発言自体は区別だと思う。
根拠はこれ-> 新・全国の放射能情報一覧

一桁違えば決して"東京と同じ"ではない。因みに避難地域で数値の高いところと東京では3桁違う(500倍)。

 

彼女曰く「なんでわざわざ危ない事故を起こした原発のある福島へ、全国の子どもたちを連れていかなきゃならないの」という事だ。決して耳障りがいい発言ではないが、この問題定義について根拠ある解を出せる人は少ないと思う。
なぜならば行くか行かないか?という行動は「差別や区別」とは別次元の話になるからだ。ここに上記の定性的な感情や気持ち、思いが入ってくる。人間は時として根拠が理解できても定性的な感情や気持ち、思いで行動が左右される生き物である。つまり個々人によって採るべき行動は変わるのである。

ただ、福島への修学旅行モデルの提案は政府がやるべき施策ではないと思う。定性的な気持ちは主体的であるから効果があるのであって主体的でないと逆効果しかうまない。政府がやるべきは主体的に動くよう促す情報公開である。判断は市民が行えばよい。政府は決して福島応援団になってはいけない。なぜならば政府の施策全てが応援団として疑義の目に晒されるから。たとえ結果が期待する逆の効果となっても事実を淡々と出さないと全てが信用されなくなり政府本来の役目が果たせなくるのは今日では皆が理解できる。